新型セレナのTVCMをご覧になった方も多いと思います。某大物ミュージシャンが、リズミカルにハンドルを叩きながら、同乗者と同じように、楽しそうに運転しているCMです。
「運転をもっと楽しくする」という趣旨のCMですが、私には「喉元に引っかかる」ような違和感を感じてしまいました。
「運転の楽しさ」って一体何?
クルマ離れが進む現代において、各社様々なアプローチで顧客獲得に力を入れています。新型セレナの場合、いちばんのウリは何といっても「自動運転技術」の一つ、「プロパイロット」と呼ばれる、同一車線自動運転技術です。
高速道路を長距離移動するようなシーンや、延々と続く渋滞時、イライラや疲労を軽減してくれる素晴らしい技術のように思えます。
ドライバーは運転の煩わしさやストレスから解放され、車内の仲間や家族と一緒に楽しい時間を過ごせる・・・新型セレナのCMは、そういった趣旨でとらえられます。
一方、マツダはドライバーの思い通りに車を操ることを「運転の楽しさ」と定義しているようです。マツダは「楽しさ=歓び」と表現していますが。 そう、日産とマツダは真逆の方向を向いているように思えます。
参考:地味だけど凄いかも!?マツダG-ベクタリングコントロールのココが凄い!
皆さんは「運転の楽しさ」ってなんなのか?考えたことがありますか?
人それぞれ価値観は違いますから、どれが正しくてどれが間違っているという答えはないのですが、一つ確実に言えることは、「どんなに進歩しても、車は車である」ということです。
車の本質
車=自動車は日々進歩しています。ですが、車の本質は決して変わることはありません。
参考:クルマは凶器か?テクノロジーの進歩により忘れ去られるモノ
車はどんなに進歩しても飛行機や電車にはなりません。車は車。用法上の凶器という本質から逃れることはできないのです。
全ての責任は、使う人に委ねられる。使うにも試験に合格し許可を得る必要がある。それが車なのです。
運転を放棄してまで得たい「楽しさ」とは?
前述のTVCMで感じた違和感は、車の本質を全く無視しているからです。家族や仲間と同じ楽しさを共有したいのであれば、車を運転しなければいいだけです。
電車やバスなど、ほかの第三者に運転を委ねてしまえばいいのです。もちろん、その「運転を委ねられた人」は、安全・確実に責任を全うするでしょう。それが「ドライバー」であったり「運転者」だったりするんです。
ドライバーだけれど、その責任を放棄して楽しみたい・楽をしたい・・・それはちょっと感覚がズレているんじゃないでしょうか。
自動運転については、アレコレ言いたいことも多いので、いろいろと記事を書いています。よろしければこちらもどうぞ。
参考:自動運転のニーズがあるか否かよりも、忘れてはいけないこと
参考:運転好きの筆者が、完全自動運転のメリットを片っ端からブッた斬る
それでは、良きカーライフを。